・2019年7月2日


7月2日(火)

「磐余池」の五つの最新の候補地を巡る

上之宮遺跡は若かりし聖徳太子の居住跡

桜井駅―戒重・春日神社―Ⓐ-吉備・春日神社Ⓑ-

Ⓒ妙法寺―万葉の森―香久山公園―安部文殊院―

上之宮遺跡―石寸山口神社―Ⓓ-Ⓔ-JR桜井駅

 

日本書紀や万葉集に登場する古代の「磐余池」がどこにあったか? 最新の説では五つの候補地があげられますが、本日はこの候補地とそのゆかりの遺跡を巡り、どの説がより信ぴょう性があるか皆さんの目で見ていただこうという歴史ロマンあふれるウオーキング企画です。

 

本日は10時ごろからは天気は回復する予報となっていますが、朝から雨模様ということでどのくらいの参加者あるかスタッフ心配なところです。

 

10時JR桜井駅集合。出発式では中本リーダーからコース説明があり出発です。

本日の各候補地並びにゆかりの遺跡では尾花スタッフの丁寧な解説があります。

この頃になると雨も上がり、ウオーキングには支障なくなりました。

 (写真は桜井駅での出発式)

 

まず戒重の春日神社へ。ここは敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)がこの春日神社一帯にあったとされ、また大津皇子の邸宅もこの訳語田にありました。これも磐余池の位置を考察する1つの手がかりになります。

(写真は春日神社にて)

つぎに候補地Ⓐへ。安倍木材団地の一画。今は自動車学校になっています。ここに7つ井戸があり湧水の湧き出し口になっていますが、飛鳥時代には水が湧き出し川となって流れていたことから、苑池と想定される磐余池の候補とされます。また近くの石寸山口神社が双槻神社といわれていたことから、用明天皇の磐余双槻宮(いわれなみつきのみや)が置かれていたと考えられ補強材料ですね。千田先生の提唱されている説です。

(写真はⒶ候補地を望みながら尾花スタッフから解説中)

次に候補地Ⓑへ。吉備春日神社の南に位置する吉備池廃寺跡です。ここから巨大な塔を持つ百済大寺と思われる遺構が確認され、ここは磐余池の候補地からは除外できるようです。

(写真は吉備池にて)

次に東池尻町にある候補地Ⓒへ。ここは平成23年橿原教育委員会の発掘調査により、古代に築造された池の堤であることが判明し、磐余池の堤である可能性が大きいと発表されたところです。ここは和田萃先生が提唱された場所でもあります。

(写真は候補地Ⓒにて解説の様子)

この近くの御厨子観音でトイレ休憩をとり、万葉の森を散策して昼食場所の橿原昆虫館へ。

(写真は万葉の森へ行く途中)

昆虫館で昼食。昼食後は皆さんで記念撮影して恒例の尾花スタッフから蘊蓄話がありました。

(写真は昆虫館前での蘊蓄話)

(写真下は皆さんで記念写真)

次は若櫻神社へ。この神社の名前の由来は、履中天皇の磐余池での遊宴時の桜の花びらの故事にちなんで、宮を磐余稚桜宮とおつけになり、それがこの神社の名前の由来となったとのこと。ということでこの近くに磐余池があったという材料でもあります。

(写真は若櫻神社での解説中)

次は安倍寺跡へ。安倍倉橋麻呂の創建による法隆寺式伽藍配置をもつ寺院であったが戦国時代の兵火で消失するも、平安時代後期に安倍寺の北東に建てられた別所が安部文殊院として現在に至ったようです。

(写真は安倍寺跡にて解説中)

 

次は安倍文殊院でトイレ休憩。奈良情報商業高校の周りをまわって上之宮遺跡へ。

 

上之宮遺跡は、その名称や時期、出土品などから聖徳太子の宮跡と推定されるところです。ここが宮跡とされると、この北に用明天皇の磐余池辺双槻(いわれのいけのへのなみつきのみや)があったことになり、磐余の池の位置解明のヒントになるようですね。

 

次は石寸山口神社へ。この神社石寸と書いて「いわれ」と読むようですが、かっては双槻神社と呼ばれていたようです。ということでこのあたりに用明天皇の磐余池辺双槻宮があったと考えられ、このことからこの西側あたりに磐余池が存在したという説が言われるようです。

 

石寸山口神社から狭い住宅街を北に行ったところが候補地Ⓓになります。

 

そこから住宅街を通り桜井駅を目指します。

 

途中寺川を渡りますが、このあたり一帯が磐余池であったというのが前田先生のⒺ説です。いまは家屋が建ち並びまったく想像もつきませんが、近くに敏達天皇の訳語田幸玉宮があり、大津皇子の邸宅・訳語田宮もあり、また枕草子の35章の「磐余池」の記述からも、このⒺ説が有力な説ということができるかもしれません。

 

今回の5つの候補地のうちⒷは舒明天皇の百済の宮跡の可能性が強く、同じくⒹも磐余池辺双槻宮が置かれていたと考えれば除外され、Ⓐ、Ⓒ、Ⓔのいずれかが磐余池ではないかと思われます。現在Ⓒが通説のように思われていますが、まだ決定的なところまでは至っていないと思われます。

 

尾花スタッフの考える上でのポイントは

   磐余の範囲はどこまでなのか

   磐余池が苑池出るとして、水をどのように引いたのか

   磐余池跡が考古学的に発掘されること、発掘されなくてもその存在を示す資料がさらにどのように発見されるか

などです。

 

以上各候補地やゆかりの遺跡での尾花スタッフの説明に沿って要約をつけましたが、この磐余池の候補地の話、現地を見られていかがだったでしょうか?まだまだ結論の出ない状況です。皆さんも推理されたらいかがでしょうか?

 

 

本日はお疲れさまでした。参加者は43名。踏破距離は12kmでした。

 

 

次回の例会は弘法大師が歩いた道④ということで奈良市のゆかりの場所をめぐります。ご参加お待ちしています。