・2017年7月16日例会

2017年7月16日例会

 「五代友厚と加島屋には多くの接点が・・・」大同生命ビルから大阪取引所へ

 

JR新福島駅―福沢諭吉生誕の地―西朝陽館跡―大同生命ビル―五代友厚邸跡―靭公園―大阪商業講習所跡―大阪商業会議所―八軒屋船着場跡―川の駅八軒屋―天五に平五・十兵衛横丁―花外楼―大阪取引所―大阪俵物会所跡―中之島公会堂―大阪通商会社跡―五代友厚邸跡―米会所跡―国産ビール発祥の地―JR北新地駅

 

 

 

例会当日は梅雨気象による集中豪雨が九州で災害を引き起こした後で、大阪市内は霞のような薄雲に覆われた天候であった。会長の挨拶にも豪雨被災者を悼み今日、われわれがウオーキングに参加できることを感謝しましょう。と、あった。

 

 集合場所はJR新福島駅から5分程度離れたJR福島駅側の福島公園である。参加者は木陰を選んで待機していた。今回のウオークは、江戸時代に多くの蔵屋敷が立ち並び、天下の台所と言われた商都が、維新後において蔵屋敷が無くなり衰退するところを薩摩藩士であった五代友厚、大阪豪商が再び商都を復興させた中の島付近の、その足跡を振り返る。

 

 福島公園を出発し、浪速筋を南下して朝日放送ビルを東に折れる。ここに慶応大学設立の福沢諭吉が誕生した中津藩蔵屋敷跡がある。諭吉はこの蔵屋敷に併設された長屋で生まれた。ま、まさか、あの万札の諭吉様が大阪生まれだったとは!という表情で参加者はその碑文を見ていた。この中津藩は梅田駅北側の中津ではなく大分県の中津市のことである。

 

 各大名の蔵屋敷も、この堂島川沿いに集中している。東に行くと阪神高速橋脚が見える。その手前に西朝陽館跡がある。明治9年、五代友厚が製藍業の保護と輸出を目的として設立した工場(会社)跡であり、東京の朝陽館と区別するため「西」を加えられた。この場所はもと大村藩の蔵屋敷跡である。

 

  四ツ橋筋の交差点に出て南に折れ、堂島川を渡ると、大同生命ビルが見える。創業時の建築様式を残したビルの外観を遠望した。NHKの「アサがきた」に出てくる豪商加島屋に嫁いだ広岡浅子が設立した。維新後に豪商が消えゆく中で炭鉱会社、加島銀行を設立し、その後、数社の保険会社を統合した保険会社である。平日ではビル内にある浅子の資料館がオープンしている。

 

 ここから20m程度南下すると梅花女学校発祥の地(現、梅花女子大)がある。明治11年、キリスト教女学校がその始まりである。この学校の教員であった成瀬仁蔵が、これからの日本人女子には教育が必要であることを大同生命の浅子に訴えた。男社会で苦労した自分自身を顧みて、浅子は東京に日本女子大を設立する。

 

 四ツ橋筋をさらに南下すると大阪科学技術館がある。この館は五代友厚邸跡に建てられている。係の者に五代友厚の遺物が残されているかを聞くと、瓦や建築の残滓を保管している、しかし、展示はしていないという返答であった。

 

 この前が靭公園で、少し早い昼食にする。戦前の飛行場跡であったため東西に細長い形状である。樹木の日陰では海風で心地よい。食事を終えた参加者の一人は「私、梅花の卒業生です。」と誇らしげに話していた。

 

 昼食後はいつもの蘊蓄講話で頭脳をリフレッシュし、公園を縦断する。

 

 浪速筋へ出て南下し、阪神高速阿波座交差点を過ぎて西に入ると公園の奥に大阪商業講習所跡の碑がある。大阪商工会議所の初代会頭にあった五代友厚は、大阪財界有力者十六名を集い「大阪商業講習所」を私立として創設した。後、「市立大阪商業学校」、さらに「市立大阪高等商業学校」へ昇格し、わが国初の市立大学「大阪商科大学」が誕生した。大阪商人の意気込みである。戦後、アメリカ占領軍の兵舎に接収されていた杉本キャンパスが返還されると、大阪商科大学、大阪市立都島工業専門学校、大阪市立女子専門学校を統合し新制総合大学「大阪市立大学」として発足した。昭和50年ごろ、旧学舎の庭に20坪程度の白ペンキが風化した西部劇にあるような教会が残存していた。校庭横、大和川河川敷には射撃痕が残るコンクリート壁も残されたままであった。卒業生には大阪合同紡績社長や大和銀行・野村証券創設者をはじめ、大阪中央公会堂寄進者、豊年製油社長、市大・田中記念館寄進者など、大阪財界を代表する人物を多数輩出している。

 

 講習所跡を後にして、中央大通りを東に行くと中央区役所につく。ここでトイレ休憩。

 

 松屋町筋を北上すると、五代友厚初代会頭の銅像のある大阪商工会議所につく。五代友厚は、大阪商法会議所(現、大阪商工会議所)の生みの親であり、 近代大阪経済の父とも呼ばれている。ここで、五代友厚の解説書を参加者に配布され、北上する。ライフ(ビル)の手前で東に入り、谷町筋を迂回して土佐堀通に出る。八軒屋船着き場跡の碑を見てから川の駅八軒屋に到着。トイレ休息である。

 

 土佐堀通りに戻り、西に行くと天神橋交差点に北浜東郵便局と日本郵便がある。この入り口に近代郵便制度の創設者である前島密の銅像がある。1円切手の肖像であったとは知らなかった。明治4年、東京~大阪間で郵便輸送を始めた記念として東京と大坂「梅田小荷物駅」に銅像が建てられたが、梅田駅改修に伴い平成15年、現在の地に移設された。

 

西に行くと「天五に平五・十兵衛横丁」の碑がある。天王寺屋五平と平野屋五平が道の両側を挟んで両替商を営み繁盛した所で、二人合わせて十兵衛横丁と呼ばれていた。

 

北上すると北浜駅に突き当たり、花外楼の料亭がある。五代友厚が明治政府要人数名を集めて立憲主義で日本を統治する方針を決めた大阪会議がこの料亭で行われた。日本の行政方針を五代が決めたともいえる。

 

 これを西に行くと大阪取引所がある。五代友厚が発起して大阪株式取引所を設立し、昭和10大阪証券取引所となり、現在はパソコン取引により証券取引は東京に移され、証券以外の大阪取引所として現存する。

 

 この交差点の向かいに大阪俵物会所跡がある。資金難の明治政府は高価な干しアワビ・干しナマコを俵に詰めて輸出し、その代金で近代備品を購入した。会所とは公的な機関という意味である。

 

 中之島に渡ると公会堂が目に付く。これは大阪市大の卒業生が寄進した。中之島図書館横に大阪通商会社・為替会社の碑がある。明治新政府御用金の負担、大名貸しで没落した豪商救済が目的の政府機関であり、両替商から国立銀行へ脱皮させる礎になった。大阪市役所前の日本銀行は五代友厚の別邸跡である。

 

 日本銀行西の堂島川を渡ると米会所跡の碑が堤にある。蔵屋敷消滅後公的な米の売買機関を五代友厚が再興した。米の現物取引以外に先物取引を世界でも最初に行われた。この前の広い歩道の先がゴールのJR北新地駅である。

 

維新を乗り越えた新地の街は夜の艶やかさも無く静かであった。参加者は93名、歩行距離は11kmであった。